”最期”を迎えるということ

日本とカンボジアの違いはたくさんある。

そりゃもちろん、たくさん。
そのたくさんある違いのなかで、

「死との向き合い方」に今、私は向き合っている。

病院で亡くなることが当たり前である日本

家で亡くなることが当たり前であるカンボジア

今までの自分の当たり前が通用しない世界にいることを痛感する。
日本の病院で働いている時、先が永くない患者の「家に帰りたい」という患者の想いにどれだけ真剣に本気で寄り添えていただろうか…
先日、足の怪我が化膿して、足の一部が壊死してしまったために入院していた患者がいた。
本当は、足を切断する必要があった。
壊死部分が広がっていったり、足にいる菌が全身にまわって死に至る可能性があるから。
しかし、この病院には専門の医師がいないため、足を切断する手術は出来ない。
大きな病院に行くように説明すると、家族から帰ってきた返事は、

「お金がないから大きな病院には行けない。ここで治療して欲しい」

だった。
足を切断しないと命が危ないかもしれないことを伝えても、家族の意思は変わらなかった。
私たちはここで出来る限りのこととして、手術で壊死した部分は切除し、毎日毎日ガーゼを交換し、治ることを本人も家族も私たちも願っていた。
足の状態は良くなっているように思われたが、患者の身体はあまり良い状態ではなかった。高熱が続いたり、下痢が止まらなかったり…何が起こってもおかしくない状態だった。
ある夜、「帰りたい!家に帰りたい!」と何回も訴え、身体についている心電図モニターを外したり酸素のモニターを外したり、落ち着かない様子だった。
私は、この「家に帰りたい」という患者の切実な想いと、真剣に向き合わなかった。
患者にはまだ治療が必要で、毎日ガーゼ交換が必要で、きっとそれを続ければもっと良い状態になると信じていた。いや、思い込んでいた。

突然、彼女の心臓が止まった。

心肺蘇生を行い、なんとか心臓は動きを取り戻した。
急いで帰る準備をして、ギリギリの状態で救急車に乗り、家族とともに…
救急車を見送るみんなの背中が、いろいろな感情に揺れているように見えた。
哀しさ、無力さ、不甲斐なさ、後悔…
これで良かった!と自信を持ってそこにいる人は誰一人としていなかった。

私たちは、ここ、カンボジアで医療をしている。

カンボジアの文化、習慣、ここに生きる人の想いを大切にしていかなければいけない。
患者・家族一人ひとりと、その一人ひとりの命と本気で、真剣に向き合っていく。
それはすごく怖いことで、勇気が必要なこと。

彼女は、その勇気を私に少し、分けてくれました。

私はこの勇気を持って、医療を求めているたくさんの患者に、医療を届けていくと改めて心に決めました。

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